週末の終末世界で考えたSubstackのこれから
Substackの閑散ムードに危機感を感じている人へ
お盆の東京の静けさを、今でも覚えている。
大学を卒業して、20代を東京で過ごしていた頃のことだ。
普段の東京は、いつも何かに追われていた。
人々は足早に行き交い、車はどこまでも詰まり、駅には広告音が鳴り続け、街は光と情報の波で息つく暇もなかった。
けれど、お盆になると、そのすべてがふっと止まる。
あれほど人であふれていた街が、突然、もぬけの殻になる。
時間だけが置き去りにされたように、ビルの谷間に静けさが落ちる。
誰もいない道
シャッターの下りた店
少しだけ熱を持ったアスファルト
遠くで鳴る信号機の音
その静寂の中で、私はなぜか、無性にわくわくしていた。
寂しいはずなのに、少し自由だった
取り残されたはずなのに、どこか安心していた。
それは、まるで『少女終末旅行』のような感覚だった。
世界が終わったあとのような退廃感。
でも、その中にある、妙にやさしいほのぼの感。
誰もいない世界で、絶望的な状況を受け入れながら、
なぜかこれまでの人生に少し満足している
最後の食料を食べて、毛布にくるまり、
「それから考えよう」
と眠りにつく
そんな静かな終末感が、当時の私には不思議と心地よかった。
都会の喧騒に疲れ、ブラックな職場に削られ、毎日をなんとかやり過ごしていた自分にとって、その“止まった東京”は、少しだけ救いのように感じられたのだ。
こんなことを書くと、Substackが静かになっていくことを喜んでいるように見えるかもしれない。
でも、そうではない。
人がいなくなることを喜んでいるわけではない。
盛り下がることを歓迎しているわけでもない。
ただ、残る人が残ったのなら、そこからまた、じっくり広げていけばいい。
そう思っている。
今週末のSubstackには、あのお盆の東京に似た空気があった。
多くの人が、きっと肌で感じているはずだ。
何かが落ち着いた
熱狂が一段引いた
人の流れが変わった
6月に活動を休止し、7月にSubstackへ戻ってきたしものんさんの記事は、まさにその感覚を言い表していた。
ゴールデンウィークの頃、Substackはお祭りのようだった。
情報商材系の人たちが先導し、あちこちでイベントが立ち上がり、人が流れ込み、タイムラインは賑やかだった。
6月いっぱいは、その熱の残り火のようなイベントが続いていた。
そして、気づけば人がいなくなった
いや、正確に言うと、びっくりするくらいいない。
Substackアイコンで表示されるタイムラインは、まるで6月半ばで時間が止まったかのようだった。
土日に人がいない。
これは、Xを主戦場にしている自分にとって、かなりの違和感だった。
Xでは、土日こそ勝負の時間だ。
フォロワーを増やすなら、むしろ土日。
土日の動きかけ次第で、フォロワーが100人、200人伸びることも普通にある。
だから、Xで本気で発信している廃人たちは、土日にこぞって企画を立てる。
イベントを起こす
盛り上げる
トレンドを作りにいく
少なくとも、私がいるAIマンガ・AIイラスト界隈では、土日のタイムラインはいつも動いている。
作品が流れ、企画が立ち、誰かが叫び、誰かが乗っかり、誰かが画像を作り、誰かがコメントする。
そこには、今日食べた卵粥の話や、子どもが折ったちょっと曲がった折り紙の写真が、ぽつんと置かれるような空気はあまりない。
でも、Substackにはそれがある
むしろ今日のSubstackの5割以上がそれだった
不満を感じているのかと聞かれたら、答えは少し違う
そして、私はたぶん、その感じが嫌いではない。
文頭に書いたように、私はむしろ、妙なわくわく感を覚えている
気づけば今日、4本目の記事を書いている
これまでの私は、Substackをそこまで本気で使っていたわけではなかった。
基本的には、Xの投稿をコピペして、一緒に予約投稿しておく場所
リアルタイムの投稿や交流は、ほとんどXでやっていた
どちらかと言えば、Substackは「文章を書けるようになるためのインプットの場」だった。
人の文章を読む
書き方を学ぶ
空気を眺める
自分の投稿を置いておく
それくらいの距離感だった
それなのに、今日は無性に書きたくなった。
なぜだろう。
ひとつは、私がひねくれ者だからだと思う。
人がいなくなった場所を見ると、なぜか入りたくなる。
みんなが盛り上がっていると少し引いてしまうのに、静かになると急に腰を下ろしたくなる。
でも、理由はそれだけではない
たぶん私は、こう感じたのだ。
Substackに、本当に残りたい人だけが残った。
今ここに残っている人たちは、文章を読むことが好きな人たちだ。
文章を書くことが好きな人たちだ。
静かな場所で、少し長めの言葉を受け取ることを面倒だと思わない人たちだ。
そう感じられた。
XでSubstackの良さを語っていた人たちは、こう言っていた。
Substackは、情報の波に飲まれない穏やかな場所だ。
ゆっくり文章を読める場所だ。
SNSの喧騒から少し離れられる場所だ。
けれど、実際に入ってみると、最初のSubstackは少し違っていた。
SNSのタイムラインも見なければならない
メールマガジンも確認しなければならない
通知も来る
おすすめも流れる
いろいろな人が一気に入り乱れる
次から次へと人が来て覚えられない
穏やかな場所というより、むしろ他のSNS以上に時間を奪われる、疲れる場所に感じる瞬間もあった。
欲しい情報にたどり着く前に、いろいろな熱量や宣伝や企画に巻き込まれてしまう。
これは、本来のSubstackの姿ではなかったのかもしれない。
しものんさんの記事にもあったように、Substackは引用リスタックによって、おすすめし合わなければ広がりにくいSNSだ。
ただ投稿すれば勝手に拡散される場所ではない。
誰かが読み、誰かが紹介し、誰かが橋をかけることで、少しずつ言葉が届いていく。
そして面白いのは、その引用のつながりが、まったく違うジャンルの間でも起こることだ。
AIマンガの人が、暮らしの文章に触れる
ビジネスの人が、創作の話に反応する
子育ての話から、文章論につながる
音楽の話から、AI表現の話へ飛ぶ
Xではなかなか交わらない川が、Substackではふと合流する
その偶然が、私は少し好きなのだと思う。
お祭りは、たぶん一度ここで収束していく
さらに人が減るかもしれない
静かになりすぎて、冬のような時期が来るかもしれない
寒い場所で、残った人たちが身を寄せ合いながら、少しずつ火を守るような時間があるかもしれない
でも、それでもいい。
むしろ、そこから始まるものもある。
数字を取りにいくだけなら、Xのほうが向いている
拡散を狙うなら、Xのほうが速い
反応を集めるなら、Xのほうが分かりやすい
でも、Substackには別の価値がある
Xでは出会えなかった人と出会えること
短文ではこぼれてしまう感情に触れられること
誰かの暮らしや考え方を、少し深く知れること
そして、自分の中に新しいインスピレーションが生まれること
私にとってSubstackは、数字を取りにいく場所ではなくなりつつある。
Xではつながれない人と出会い
Xでは生まれない言葉を受け取り
Xでは書けない文章を書く場所になってきている
今のSubstackは、Threadsの開始直後の盛り上がりからの収束と似ているように思う。
祭りのようになだれ込んだ人々が過ぎ去って、本当に愛着を持った人だけが残った。
今では、Threadsユーザーが他SNSへと同時並行的に活動を広げていくことで、つながりを持ったユーザーの流入が積み上がり、再び盛り上がりをみせている
今日のSubstackは、あのお盆の東京のように、少し静かで、少し寂しくて、でも妙にわくわくする場所。
誰もいないように見える道に、実はまだ人の気配が残っている
シャッターの下りた街の奥で、誰かが小さな灯りをつけている
その灯りを見つけた人だけが、そっと近づいて、言葉を交わす
そんな場所になっていくのなら、私はここにもう少し座っていたい
そして、残った人たちと、少しずつつながっていきたい
派手なお祭りが終わったあとに残る、静かな余韻の中で
数字とは別の場所にある、言葉の火を囲みながら

